ウガンダの孤児院でクラウドファンディングを始めた女子大学生の話②~あなたの過去、いくらで買いますか?~

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こんにちは!西美乃里です。

 

最近、新しいルガンダ(ウガンダで広く使われている言語です)の言葉を習いました。

「エリンニャリャンギ ンゼ ミノリ」

意味は「私の名前はミノリです」。

耳でコピーしただけなので発音は間違っているかもしれませんが、とりあえず通じます(笑)

 

教育の場での言語が全て英語なので、もちろん英語も通じます。

ですが現地の人はやっぱり自分の慣れ親しんだ言語で喋ってもらえると嬉しいようで。

ルガンダで話しかけると100%(なんなら話しかけていない周りの人も笑顔になるので300%くらい笑)の人が笑顔になります。

 

さて、自己紹介も済んだところで!

今回はなぜクラウドファンディングを始めたのか?について話をさせていただきます。

 

 

命を削る子どもたち

 

「寝る子は育つ」

日本ではこんな言葉があるくらい、子どもにとって睡眠時間が大切だということは知られていますよね。

そこで質問なんですが、

皆さんは10歳のとき、毎朝何時くらいに起きていましたか?

 

ちなみに私は7時くらいだったと思います。週末は双子の兄とよく戦隊ものの番組を見ていた気がするので、多分そのくらいです(笑)

 

では、ウガンダの孤児院併設型小学校Happy Times Child Junior Schoolに通う10歳のPatienceの場合はというと――

 

(中央のピンク色のパーカーを着ているのがPatienceです。Primary5の子です。)

 

彼女が起きるのは毎朝4時です。

毎朝4時に始まるprep(予習、復習の時間です)に出席し、17コマの授業を受け、就寝前にはまたprepを行います。授業には体育や道徳、音楽はありません。

時間にして毎日約10時間机に向かい続け、眠るのは21時以降。

最高睡眠時間が7時間です。

 

(毎朝4時からのprepの様子。1枚目の右側にはPatienceがいます。先生たちも起きています。)

 

これが彼らにとっての「日常」です。

 

子どもたちも先生たちも、睡眠時間という大切な時間を削って、命を削って、学校生活を送っています。

この学校には児童虐待を受けたり、ストリートチルドレンや捨て子だったりして警察の保護を受け、孤児院に送られてきた子どもたちが多くいます。家から通っている子どもたちもいますが、ほとんどが学校に住んでいます(先生も学校に住んでいます)。授業料を払えているのは1学年に数名程度。学校の運営資金はほとんどが寄付から成り立っています。

 

また、義務教育ではないため、お金がかかる教育は後回しにされがちです(教育の場で起こっている問題はさらに後回しにされています)。

卒業しても、日本のように学歴が就職の機会に結び付いているわけではありません。まだまだ就職にコネや裏金が用いられることも多いようです。

 

親族のコネや裏金が就職に必要になる状況は、

血縁関係や資金という後ろ盾を失くした孤児たちにとってどれだけ過酷なものなのか。

私には想像もつきません。

 

では、

就職できるともわからないのに、

 

なぜ勉強に追われているのか。

なぜ命を削ってまで勉強をしなければならないのか。

 

教科書が無いだけで、「日常」が過酷になる。

 

まず、これほどまでに勉強に追われている1番の原因には卒業試験の存在があります。

先ほども述べた通り、教育での言語はすべて英語です。卒業試験ももちろん英語。そのため子どもたちは、英語を学ぶだけではなく、英語学ばなければなりません。

 

ただ、卒業試験という制度自体は、子どもたちの教育に目標をもたらし、卒業者の学力をある程度保証するという点で、存在悪なわけではありません。

 

問題なのは、卒業試験があって、もちろん試験範囲が決まっていて、それに合わせたカリキュラムも組まれる――にも関わらず、教科書が無いことです。

 

教科書が無いため、子どもたちは授業範囲の教科書の内容を全てノートに書き写さなければなりません。(紙や停電の影響で印刷機はほとんど稼働されていません)

それが英語の長文読解の時間であっても。図が必要な理科の時間であっても。

 

すると、1つの授業60分のうち、40分間は子どもたちがひたすら書き写す時間になります。このとき、子どもたちは書き写すことに必死で理解は後回しです。

そして、理解する時間は20分間だけ。もし長文読解の授業であれば、20分間で問題を解いて、丸付けをしてもらうので、子どもたちが「なぜ間違えたのか」を理解する時間はほとんど残りません。

このように授業が「浅く狭く」なってしまっているせいで、何度も授業を繰り返さなければならないのです。

 

過度な板書は、ペンやノート、チョークの過度な消費にもつながります。

子どもたちのペンやノートはいつも足りていません。

 

また、子どもたちに教科書の内容を写させなければならないことにより、先生たちの授業のやり方の選択肢も狭まります。

子どもたちは書くことに疲れてしまい、あまり授業自体に集中できていない。なのに、子どもたちの復習のためにも、彼らのノートに教科書の内容を全て記さなければならない。授業形態はあまり変えられない。子どもたちはやっぱり授業を聞かなくなる――

 

その結果、先生たちは、授業に対しモチベーションを高くできません。(先生たちに調査をしたところ、授業に対するモチベーションの高さは5段階中3が最高でした)

先生たちも努力すべき方向を見失っているのが現状です。

 

 

教科書があれば、過度な板書がなくなる。

それにより、ペンやチョークの過度な消費もなくなる。

1つの授業での進度や理解が早くなる。

そうなれば、授業はより「広く深い」ものになり、余った時間で道徳や体育などの授業ができる。

しかも、教科書は世代を超えて受け継ぐことができる。(更新された情報に対し授業内容を更新するスキルは、現時点で先生たち身についています。今までずっとそうしてきたんです。)

 

教科書を贈ることは、子どもたちに“時間”を贈ることに等しい、と思っています。

 

ここで、この連載1本目の質問を思い出してください。

あなたなら、自分の学生時代の“時間”、いくらで買い戻しますか?

 

教科書を贈ることは“時間”を贈ることに等しい。

だから、教科書を買うことは“時間”を買うことに等しい。

 

ウガンダで命を削って勉強に励む子どもたちの“時間”に、

あなたならどのくらいの価値を見出してくれますか?

 

この過酷な「日常」のなかで笑うPatienceの代わりに、私から尋ねさせてください。

 

Patienceが犠牲にしなければならない時間と、あなたの学生時代の時間、価値は違うのでしょうか。

教科書があれば、変わる未来を、あなたは見過ごせますか。

 

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