今後歴史に残るパンデミックであろう、新型コロナウイルス、COVID-19。
留学先、タンザニアでも1人目の感染者が確認され、瞬く間に学校が閉鎖。運航する飛行機も次々と減り、航空券の値段は2倍にも3倍にもなっている。
「身動きが取れなくなる前に帰ろう。」
一時帰国を決めた。
これは5ヶ月間滞在していた留学先のタンザニアの小さな村から、日本へ一時帰国を決めた僕に起こった出来事である。
この記事の目次
別れの挨拶もほとんど出来なかった。
自分が滞在していたのは地方の田舎。
3月19日の夕方、数日前に始まった日本語講座でも
と急すぎる宣言をした。
僕のことをMwalimu(先生)と呼ぶ彼らは、
と驚きを隠せない様子だった。
いつになるかはわからないが帰ってくると約束した。
日本語教室を終えて、必死にパッキングをした。村の人に帰国を伝える時間は取れなかった。
この日は朝からなんとなく嫌な気がした。
だから街へ行けばそういわれることはある程度覚悟して車に乗った。村の人たちは、自分がこの感染症が広まる前からいることを知っているから、「コロナ!」という人はいなかった。
スタンドに向かう途中に2,3軒店がある。全員が自分の大きな荷物を見て言う。
"Unatuachia. (私らを置いていくんか。)”
”Usiondoke. (いかんといて)”
そんな言葉に「戻ってくるから」とだけ伝えて車に乗り込む。
なんとなくあった悪い予想は的中。
20分ほど車が走ったとき、道で超大型トラックが荷物を大量に落として道をふさいでいる。
自分たちの車が行く道はない。全員下ろされて、そのトラックの前方まで歩くよう伝えられる。
僕が乗っていた車は道端を少し迂回して、トラックの前方に出ようとした。
ところが、それが不幸にも泥にはまり抜け出せなくなる。
男全員招集。車を押せと。どれだけ押しても動かず、40分ほど奮闘したのち脱出。
スワヒリ語が分かるから・・・。
街に着いた。そのスタンドでは、2人いる自分のママのうちの1人が自分を待ってくれていた。
ママとの出会いは11月に留学が始まったときからである。会って2日で、僕の誕生日を祝ってくれたり、ママの誕生日には僕がケーキを持っていったり。
日々の些細なことも頻繁に共有し合う仲だった。
車がスタンドに入るとき、自分の乗る車を見つめるママを見た。こころの中で「ママ!!」と喜ぶ。
自分は入り口に一番近いところに座っていた。
ドアが開く。
そこで待っていたのは、大量のコロナ!コールと、侮辱のことばだった。
ある人はわざわざ寄ってきて自分にことばをぶつけてくる。
きっと普通の旅行者でスワヒリ語を知らなければ、「コロナ!」と言われたという記憶だけで終わる。
それが幸か不幸か、スワヒリ語が分かるがために、一言一言を理解してしまった。
まあ、そうだよな。
世界中がパニックに陥り、恐怖を抱いている。
特に、周りのタンザニアンも現地の医療事情から恐怖に陥っている。
それでも愛はちゃんとあるんだ。
自分に起こったことの一部始終を遠くから見ていたママは、近くに寄ってきて、
"Pole, Hide(気の毒に。とでも訳しておく。)”
と声をかけてくれた。
トランクにあった荷物を受け取るとき、1人の男性が自分の近くでいろいろと自分に向けて言葉を放っていた。
さすがに自分も少しイラっときて、「ほっといて。」と怒鳴った。
荷物を降ろしてくれていたコンダ(チケットをくれたり、お金をやり取りしたりする人のこと)もその人を押し返して、自分を守ってくれた。最後には、
"Pole kaka. Safari njema." (お疲れ様。気を付けて。)
とねぎらいの言葉をくれた。
そういやこのコンダ、前にも一度会ったことがあるとその瞬間気付いた。
初めて会った時も色々と話をしてくれたのが彼だった。
そして、ママの家に向かうためバジャジ(トゥクトゥクのこと)の方へ向かった。
いつもこのスタンドには、自分が村に戻るときにチケットを切ってくれるバス会社のEliという名の知り合いがいる。
Eliは自分よりもかなり年上だが、友達である。自分のババとよく知り合いで、仲良くなった。
彼は毎回僕を見るなり全力で走ってくる。
あるいは遠くから僕の名を呼ぶ。
" Masanja!! "(スワヒリネーム。”結ぶあるいは合わせる”という意味)
この日は彼の声は僕の耳に入ってこなかった。イライラしていたからだ。
ママの、「ヒデ、後ろ」の声でようやく気付いた。
彼はいつも以上の笑顔でこっちに向かってきていた。
今日出発することを伝えただけで、怒りのせいか、いつもみたいにそれ以上の話をすることはなかった。
彼にも「行くな。残れ。」と何度も言われたが、別れを告げバジャジに乗り込む。
バジャジに乗り込み、リュックを前に抱えたその瞬間、なぜか大量の涙があふれだしてきた。
悪口を言われたことに対する涙ではなかった。
そんな人の愛を全身の細胞で感じ、涙が止まらなくなった。
僕を待っててくれる人達がいる。
涙は一向に止まらない。そんな自分を見て、ママは、
と声をかけてぎゅっと抱きしめてくれた。
声は届いているが、涙はますます流れでる。そんな自分を見て、ママが、
このセリフ、どこかで聞いたことがある。
そうだ、ママが小1の娘が泣いているときによく言うことばである。
ただの口癖なのかもしれない。それでも、本当の子供のように接してくれるママがいることに嬉しくなり、また涙が止まらなくなる。そしてママは、
「chuchuchuに涙見せるんか?」といった。
chuchuchuは小1の娘の通り名。僕のことをuncleと呼ぶ。天使のような可愛さで、僕も溺愛している。
それは出来ないと思い、必死で涙をこらえた。
家について、chuchuchuが走り寄ってきて足に抱き着く。
” Uncle, shikamoo!!”
いつも通り挨拶してくる。自分も全力の笑顔でMarahabaと答える。
彼女には、一度タンザニアを去ることを伝えていない。
なぜなら、このママの家へは、11月・12月のうちの数日、もう一人の日本人ときたが、彼がタンザニアを出国してから彼の名前を呼び続け、彼がどこにいるのかを絶えず聞いてくる。
彼女が自分を彼を探すように探し続けるのは胸が痛い。事態が落ち着けば戻ってくるといっても苦しい。
自分が日本人であることはわかっていても、それがどれだけ離れた国であるかは彼女はまだ知らない。
出国する日、ママが「chuchuchuがヒデを探してるよ」と連絡してきた。
そのあとママに電話をして話すと、彼女のことばに空港で涙が止まらなくなった。
また怒られる。そんなんで飛行機乗ったらダメと。
chuchuchuは?と聞くと、寝ていると。「もし起きたら電話して」と伝えた。
ママには「明日来ると伝えなさい」と言われたから、その通り、「明日」とだけ伝えた。彼女も分かったと。
必ず戻って、伝える。
今回の一時帰国で、自分がこれまで過ごした約5カ月どれだけ人の愛情の中で過ごしていたかを感じた。
お世話になった人はここに書いてないだけでもっと沢山いる。
自分が情けなくなった。
ちゃんとありがとうを言えていたのか。
じゃあ、必ず戻って、伝えよう。
それまでは悔しい気持ちを抑えて、力を蓄えよう。
世界的パニックを招いているコロナウイルスというものが、皮肉なことに忘れてはいけない大切なものを教えてくれた気がする。