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1994年に、ルワンダでおきたジェノサイド。
1994年以前も虐殺はあったが、特に激しい悲劇が起きたのは1994年からであった。
なぜ、ジェノサイドはおきてしまったのか。一体何があったのか。
(1994年以前に関する記事はこちら)
この記事の目次
ルワンダ大統領暗殺、そして起きたこと
ジェノサイドは、1994年4月6日夜、ハビャリマナ大統領のった飛行機が墜落するという事件をきっかけに始まっていく。
未だに暗殺の犯人ははっきりとは特定できていない(これが不運なのか幸運なのかはわからない…)が、この事件を受けて、猛烈なスピードで殺戮が始まったことは間違いないだろう。
このジェノサイドには、大きく3つの特徴がある。
①犠牲者がとにかく多い
当時のルワンダの人口は約800万人だが、この4月からわずか100日足らずの間に少なくとも50万人が虐殺されている。
(この人数については、110万人や80万人など諸説あり、虐殺犠牲者数は正確に把握することは不可能となっている)
②殺戮のスピードがとにかくはやい
虐殺の犠牲のほとんどは4月第2週から5月第3週に集中しており、この6週間の間で犠牲者総数の8割が殺されたと推計される。
(これはナチス・ドイツのユダヤ人殺戮の少なくとも5倍)
③「普通の人々」が深く関わった
殺戮において数多くの一般民間人が動員され、かつ全国各地で行われた。
(昨日まで仲良しだった隣人が、今日は殺害者。なんてザラ)
なぜ、上記の特徴が生まれたのか。
ジェノサイドの主導的役割を果たした人々は「積年の部族対立」という解釈を広めたが、これは、妥当性に欠けている。
(部族対立といえば、責任を曖昧にできるからこう説明するのだろう)
ならば、「原因はこれです!」なんて、はっきり言えるものがある訳ではないが、ひとつ考えられているのは「言葉」である。
「言葉」の重み
殺戮において広範囲で使用された、農具である鉈を握ったフツの人々の親たちは、自分たちがツチに比べて知能も外見も劣るとさんざん言い聞かされ、成長してきた(1の記事に少し書いた)。
容姿の面でも、国政を司る能力の面でも、ツチを超えることは決してできない、と。
そしてフツは政権を奪取したとき、自分たちが聞かされてきた悪意に満ちた言葉を口にすることで、過去の恨みを煽り立て、心の闇を刺激した。
フツの立場から住民殺害を奨励するラジオも流行し、ラジオの「言葉」を通して、殺害という狂気が正気なものに見せかけられたことも、大きく影響していたと、当時のルワンダ人は考えている。
殺さないと、自分も殺される
「言葉」の他に、フツ内部での圧力も、ジェノサイドをもたらした要因のひとつだ。
「攻撃に加わらないと、今度は自分が攻撃の対象になってしまう。」
この状況が、脅威としてフツの中に広まった結果、民衆は参加を選んだ。
ここで重要なのは、ジェノサイド初期の民衆の参加だ。
なぜなら、初期はまだジェノサイドに参加している民衆は少ない。
攻撃が広まってからは、参加していない民衆は減り、「殺さないと、自分も殺される」という思考になることはわかるが、初期段階ではそうはならないはずだ。
ここで注目すべきは、当時のルワンダの経済・社会状況である。
当時のルワンダは、成年人口の9割が農業を行っていた。
しかし、人口が増えるにつれ土地は減少。農業従事者の所得は減る一方だった。
ジェノサイドはこうした状況下で、ツチの持つ土地や仕事を、フツに新たに配分する機会となる。
そこで、当時、土地や仕事の分配権を持っていた地方指導者の呼びかけに民衆が応え、その見返りとして土地や就職の機会を期待するようになる。これは、きわめて自然なことだったのだ。
つまり貧困層にとっては、生存のための最後の選択肢がジェノサイドへの参加だった。
そして実際に地方指導者は、民衆に脅迫のみならず報酬を絶えず与え続けた。
その結果民衆の動員が進みジェノサイドの完遂が可能となったのだった。
本当の終了とは一体…
ジェノサイドは、RPF(←ツチの難民チーム的な)がルワンダの首都で新政府を樹立することで終結を迎えた。
1994年7月18日にRPFの勝利が宣言され、虐殺は公式には終了となった(これを一方的な停戦と呼ぶ人もいる)。
とはいえ難民の問題をはじめとして、ジェノサイドの終結とは言い難い状況であり、また、人々の心にできた大きく深い傷跡も、癒えることがない、というのは言うまでもないだろう。
おわりに
最後に、ルワンダジェノサイドに興味を持った方へ、『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』(Intended Consequences: Rwandan Children Born of Rape)という写真集は、ぜひ見ていただきたいです。
(写真集といっても、グロい写真はないのでそこはご安心を…!)
ルワンダジェノサイドがルワンダに残したものが、刻まれている写真集です。
見る際は、ハンカチとティッシュペーパーのご用意を、お忘れなく。
Torgovnik, Jonathan(Interviews and photographs) and Mukagendo, Marie Consolee(Introduction), 2009, Intended Consequences: Rwandan Children Born of Rape, Aperture.(=2010,竹内万里子訳,『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』赤々舎)
アフリカに、そしてルワンダに興味を持っている方なら知っておいてほしい、ルワンダジェノサイドのお話。
まだまだ言いきれていない事実はたくさんあるが、少しでも、「ふーん、そうだったんだ」と思ってもらえれば。
- 加藤佑太朗,2016,「なぜルワンダのジェノサイドは起きたのか――民衆の動員と参加から見た全体像の構築」『パブリック・ヒストリー』13: 110-29
- 武内進一,2004,「ルワンダにおける二つの紛争――ジェノサイドはいかに可能となったのか」『社會科學研究』55(5/6): 101-29
- 武内進一,2009,『現代アフリカの紛争と国家――ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』明石書店
- Dallaire, Roméo, 2003, Shake Hands with the Devil: The Failure of Humanity in Rwanda, Random House Canada.(=2012,金田耕一訳,『なぜ,世界はルワンダを救えなかったのか――PKO司令官の手記』風行社)
- Rusesabagina, Paul and Zoellner, Tom, 2006, An Ordinary Man: An Autobiography, Viking Press.(=2009,堀川志野舞訳『ホテル・ルワンダの男』ヴィレッジブックス)