はじめまして、西アフリカのベナンという国で、青年海外協力隊員として活動中の綿貫大地です。
1983年10月生まれの35才です。
ボランティアとして活動しながら、ここベナンで起業準備も進めています!!
これまでの自分の人生を振り返りながら、
JICAボランティア&起業に至った経緯や実際の起業プロセスを数回にわたってお届けします。
今回は、前回記事に引き続き、半生の振り返りです。
大学院から転職までを綴っていきます。
内定をもらってからが苦しかった就職活動
大学院生活も終盤を迎えたころ、人生初の就職活動を始めました。
4月頃から自己分析やエントリシートの作成を始め、6月の留学生向け就活フォーラムで本格的に就職活動を開始しました。
このまま国際協力の道に進みたいと考えていた私は、JICAを大本命をとして、その他民間企業を幅広い業種で受けました。
民間企業では発展途上国、特にアフリカに直接的 or 間接的につながっている会社を中心にエントリーしていました。
しかし、本気で働きたいと思ってない民間企業から、さらーっと内定をもらえるほど、私は器用ではありません。
大学院の同期が順調に内定をもらう中、内定をもらうためだけにイギリスから一時帰国中であった私は、たまっていくお祈りメールを前に、どんどん追い詰められていきました。
そんな中、何とか三菱ふそうトラック・バス株式会社から内定をいただきました。
(後にも先にももらった内定はこれだけ)
そして、いよいよ大本命であったJICAの採用はというと、なんとか書類選考に通り、残り30人のところまで残ることができました。
そして、面接。
なんとか自分の想いを伝えられたと思っていましたが、次のステップには進めず。。。
結局、最終的な内定者は3人で、なんとそのうちの2人が大学院の同期でした。
もう過去のことなので言いますけど、実は多少のコネがあったんです。
それがあったにもかかわらず、落ちてしまった。
しかも、3人中2人が大学院の同期。
一方の自分は、民間企業から内定一つ。
国際協力の道が絶たれてしまった。
自分の1年間はなんだったんだ。。。
もうみじめで、情けなくて、悲しくて。。。
今となって客観的に見てみると、全然大したことじゃないし、就職氷河期と言われていたあの時代からすると、感謝しなければいけない状況だったかもしれません。
でも、あの当時は本当につらくてつらくて。
プライベートで悲しいことがあったのもの相まって、円形脱毛症になるほどでした。。。。
社会人として育ててもらった三菱ふそう時代
就職する直前まで、JICAに落ちたショックで、うまく気持ちが切り替えられずにいました。
ただ、三菱ってやっぱりネームバリューがすごくて、ずっと心配かけてきたおじいちゃんがとても喜んでくれたのをきっかけに、少しずつ前を向くことができるようになりました。
大学院を10月に卒業してからは、バイトしてお金を貯めて、東南アジアを旅したり、デンマークのNGOでインターンしたりしてましたね~。
そして、
2011年の4月、不安と期待、周りに対する闘争心など、いろんな気持ちが入り混じりながら入社式を迎えました。
最初に配属された部署は、物流部でした。
海外サプライヤーからトラック・バスを製造するための部品を輸入するのですが、その進捗管理とコスト削減が私の担当でした。
ここでも不器用で効率の悪い自分が前面に押し出され(笑)、入社してから3年間は本当に本当にきつかったです。
今思い返しても、「もっとうまくやれよ~、だいちー」と思ってしまうぐらい、効率が悪かったです。。
部署の中では毎日一番乗りで出社して、夜も遅くまで仕事。
土日は仕事を持ち帰ることもありました。土日の空いた時間はビジネス書を読んで、気持ちを奮い立たせる。
その繰り返しでした。
確かにもっと効率的にやれたかもしれませんが、たくさん仕事をしていること自体は嫌いではありませんでした。
なぜなら、
人よりも遅れて社会人になったこともあり、同年代の仲間に追いつきたくて、とにかく”成長したい”と思っていたから。
なので、大量の仕事を請け負うと共に、丁寧に仕事をするように心がけてました。
そうしているうちに、自分の中でいろんなことにおいて点と点がつながって線になり、会社や仕事の全体像が捉えられるようになってきました。
また、仕事に対する姿勢から、徐々に周りから評価されはじました。
例えばこんな感じ
当時部署間の関係があまりよくなくて、そのためにいろいろなプロジェクトが進みが遅かったんですね。
そこで私は、仕事を前に進めるという目的だけに注力し、前に進めるためにいろんなことをやりました。
上司を通じて相手の上司にお願いしてみたり、大事な会議の前には必ず根回しするようになり、大事なお願いがあればメールでもなく電話でもなく、必ず直接会ってお願いするようにしていました。
そうしていくうちに、フットワーク軽いやつと評価してくれるようになるんですね(笑)
さらに幸運なことに幹部候補生の選抜試験にも通ることができ、ドイツや中国での研修も受けることができました。
3年経って、やっと部署でエース的存在になれたと自信を持っていました。
まだまだやれることはたくさんあったけど、ある程度の満足感がありました。
しかし、その感情は突然やってきました。。
ある日の早朝、いつものように出社前にマクドナルドで夢ノートを眺めていると、
将来国際協力の道に進みたいけど、本当に今の会社に残ってがんばることが国際協力の道につながるのかな?
というふとした疑問が頭をよぎりました。
*夢ノート:就職活動時から書いていて、自分が、いつまでにどうなくたくて、世間に何を与えたくて、何をしたいのかを内省するためのノート
社会人経験はどんなことでも将来やりたいことに役立つ、と漠然と考えていました。
でも、今のまま突き進んでいった将来の自分と、将来の理想の自分がどうしても結びつかなった。。
将来の理想の自分に近づくために、次のステップに進まなきゃだめだ!と強く感じました。
そうなると、行動あるのみ。
まずは、転職スクールに通いました。
過去の人生を振り返り(そこでは我究と呼んでいる)、自分の強み弱みを理解した上で、自分が本当に大切にしたい価値観、そして夢を明確にします。
自分で内省を何度も何度も繰り返し、また同じクラスのメンバーとの対話。
さらに国際協力に従事している方、大学院の先輩や同期など、いろんな方たちに会ってみました。
そうするうちに、私の夢を再認識し、明確にすることできました。
今でも印象に残っているのは、国連で働いている方にキャリアについて相談させてもらった際に、彼女に言われた言葉。
ある程度スキルを身につけたのであれば、あなたが今の会社で3年働こうが5年働こうが、こっちの世界での評価は同じ。それならば、早く辞めて次のステップに進むべきだよ
この時、完全に三菱ふそうを辞める決意が固まりましたね。。
三菱ふそうに残って、昇進して、まあまあの給料をもらって、グローバルに活躍するという道もありました。
会社のいい面もいやなところもたくさん見てきましたが、後にも先にも私を育ててくれた会社は三菱ふそうです。
気づけば、最初は複雑な気持ちで入社した三菱ふそうを大好きになっていたんですよね。
なので、多少の迷いも、恐怖心もめちゃくちゃありました。
でも、やっぱり、、
アフリカ行きて~~~っていう気持ちが勝っちゃいました!!!
転職活動を本格的に始めて、アフリカでも事業を行っているサラヤという会社から内定をいただき、おっきな希望と自信をもって、新たな会社で働くことになりました!
ついにアフリカで働くことができるのか? やっぱり、いつものようにもがくのか?(笑)
その模様は次回記事で~
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