すべてはここから。ソウェト訪問が与えた影響【ヨハネスブルグ・南アフリカ】

平均寿命、49歳。

HIVエイズ感染者数、530万人(世界第1位)。

失業率、29.7%(世界第2位)。

 

これらは、かつて南アフリカが有していた不名誉な統計たち。

 

そして、これらはすべて2008年のものだ。

 

—そう、筆者が両親に連れられて南アフリカを訪問した年、2008年。

 

よくも、こんな統計を目にしながら、幼い娘2人を連れてこの国を訪問しようと決めたものだ。

 

しかも、ツアーではなく、個人旅行で。もっと言えば、父自身がレンタカーを運転して。

 

南アフリカを訪問してから、10年が経とうとしている。

 

この国を取りまく状況は、良い方向に大きく変わっただろう、と期待し、本記事を執筆するにあたり、改めて統計を調べたところ、平均寿命は63.8歳(2017年)と、この10年で大躍進。

 

しかし、HIVエイズ感染者数は710万人(2016年)、失業率は26.6%(2016年)と、前者に至っては状況が悪化している。「BRICS」とも呼ばれ、アフリカで唯一G20に参加している有力な新興国ではあるが、市民の生活環境には、改善されるべき点が多く残存する国家と言えるだろう。

 

さて、そんな南アフリカを訪れたのは、中学2年生(14歳)の夏。2年前にあたる2006年の夏に、ケニアを訪れていたため、アフリカ大陸に降り立つのは2度目だった。

 

アフリカへの憧憬を抱き、自らプランニングして訪れたわけではない。

 

それどころか、もはや記憶の彼方にあってもおかしくない、10年前の訪問だ。

 

しかしながら、10年前の南アフリカ訪問は、筆者にとって「人生を変える最大のターニングポイント」となった。それゆえ、話そうと思えば、いくらでも芋づる式で話題が出てくるのが、この旅行の不思議なところ。

 

本記事では、そのうち、当時中学生だった筆者に最も大きな衝撃を与えた、ソウェト(ヨハネスブルグ市)に焦点を当てることとする。

1。「ソウェト(So Where To)」

-かつてアパルトヘイト時代に黒人専用の居住区として指定されたタウンシップと呼ばれる地域。自由への闘争の地であり、そして歴史的にも重要な意味をもつ場所が数多く存在する南アフリカ最大のタウンシップ ソウェトを訪れれば、真に南アフリカ人のくらしや人生に触れる経験ができる。(南アフリカ観光局ホームページ「活気あふれる南アフリカ最大のタウンシップ ソウェト」http://south-africa.jp/meetsouthafrica_lists/495/(2018年3月13日閲覧))

 

アパルトヘイト政策は、非常に悪名高い。世界史に精通していなくとも、「南アフリカ」と聞いて、まずアパルトヘイトをご想像される方も多いのではなかろうか。ソウェトは、その最たる象徴とも言える黒人居住区であり、同国最大の都市であるヨハネスブルグ市に位置する。

 

2。筆者が現地で目にした光景

前項で、「真に南アフリカ人のくらしや人生に触れる経験ができる」との引用をしたが、アパルトヘイト政策終了後、居住していた黒人住民の明暗は大きく分かれ、「暗い側」すなわち低所得者層から抜け出せなかった方々の、ソウェト内のスラム街でのくらしを、ツアーで目にすることとなった。

 

真っ暗なトタン小屋の中には、小さな裸電球が1つかかっていただけ。

 

生活をしている空間とは思えない、冷たい天井、壁、そして床。

 

寝返りを打とうものならギシギシ軋むに違いない、ボロボロのベッド。

 

毛並みや柔らかさが全く無くなってしまった、タオルやシーツ。

 

トタン小屋の訪問後、ツアーの車に戻る前に、スラム街の幼稚園を柵越しに見学した。

 

手足がガリガリに痩せ、お腹が膨らんでいる子どもたち。こちらに向けられた視線からは、生きる活力を感じられなかった。ただ、じっと、静かに見つめるだけ。

 

3。筆者に与えた影響

当時、中学生だった筆者が最初に抱いた疑問、それは、「なぜ、わたしは日本に生まれ、ここの子どもたちは南アフリカに生まれたのだろう。」

 

-その日から、自分が置かれた状況を疑問視するようになった。

 

「わたしは、生まれる前に何をしたというの?生まれる環境がこんなにも違うのは、不公平だよ!」

 

「スラム街の幼稚園にいた子たちは、これからどうやって生きていくの?あの場所から、まともな職業に就けるとは思わない!それって、歴史は繰り返すってこと?」

 

「アパルトヘイト(政策)が終わっても、結局、差別される人々がいるよね、『白人』『黒人』『有色人』っていう括りがなくなっただけじゃん!」

 

取り乱したわけではないものの、ひたすらショックを受けたのは事実だった。

 

そんな筆者を見かねて、父が言ったこと:

「まずは、自分が置かれた状況に感謝すること。そして、自分が持った疑問を、社会貢献を通じて解決できるような人になればいい。恵まれた環境に生まれた人に与えられた使命を、自分なりに考えてみなさい。手始めに、緒方貞子さんや黒柳徹子さんの本やドキュメンタリーを手に取ってみたら?」

 

「そうか、自分が置かれた状況に感謝して、恵まれた環境に生まれた人に与えられた使命を考えれば良いのか。」と腑に落ちたのは、昨日のことのように鮮明に覚えている。

 

当時、筆者が考え出した「使命」は、「学業に励み、知識を蓄えること」であったため、1年半後に控えていた高校受験に向けて、それまで以上に必死に勉強した。加えて、高校入学後の英語圏への留学を志すようになり、結果的に、高校2年生の夏から1年間、米国の高校へ単身留学をし、ホームステイしながら現地の高校に通うことに。

 

留学で、嫌というほど鍛えられた「『異』を受け止め、吸収しながらも、『自己』を確立し、発信する力」は、大学入学後に、あらゆる方々とのご縁に恵まれる原動力となったと自負している。

 

筆者が持つ価値観の原点は、このスラム街ツアーにあった。

 

そして、このスラム街ツアーを経験したのは、ここ、南アフリカ。

 

-すべてはここから始まった。

 

 

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