障害観と国際協力で必要な[異なるもの]への理解 ①障害は個人の問題?

はじめに

現在、全世界には学校に行けていない初等教育の年齢の子どもたちが約6300万人いるとされ、サブサハラアフリカにはその半数以上の子どもたちが住んでいます。彼らの中には、就学を阻害するさまざまな要因を抱えた子どもたちがいます。

 

その大きな要因の1つ、それが「子どもが障害を抱えていること」です。

 

先日、ケニアの障害児の就学状況について調査を行う機会がありました。

ある母親は、こう語りました。

私の息子は3歳の時に脳性マラリアを患い、下半身が麻痺し、知能の発達もほかの子に比べて遅れてしまっているんです


彼は結果として学校には全く行けていませんでした。それでも、家族や周りの地域住民はその息子を同じ家族の一員としてみなしていました。

彼の様子を見るにつれ、ある疑問が湧き上がってきました。

そもそも、何が人を『障害者』であると決定づけているのだろうか?


というのも、少なくともこの家庭内においてはその息子は他のきょうだいと同じように接されており、そこには「障害者」というカテゴリに基づいてその息子と接する必要性が感じれなかったからです。

 

一体障害とは何なのでしょうか。


仮に障害者を「何らかの理由で生活に不具合を抱える人」と定義しようとしても、いったいその不具合とは何なのか、さらに考えなければならないことが出てきます。

 

一方で、簡単に定義できそうにないにもかかわらず、社会では健常者とは異なる「障害者」とされる人たちが確実に存在し、しばしばその中には学校に行くことが出来ない者、ネガティブな態度、差別にさらされる者もいます。

 


大学に入学して以来、私は国際協力の道を志しています。今回のこの出来事は、そんな国際協力をするうえでいったん立ち止まったうえで一考の価値があるのではないか。そんなことを思い、日本に帰国しました。

 

そこで今回は障害に対する理解の歴史について触れつつ、国際協力をするうえで必要だなと改めて感じたことについてお伝えできればと思います。

 

小学校で授業を受けるマサイ族の子どもたち

 

障害を分類する意図とは

なぜあらゆる人は「障害者」というカテゴリを作り、障害者を更に種別で分類するのでしょうか。

 

教育の文脈においては、障害(disability)というカテゴリや障害者の分類は、主に下記の5つの目的や意図があって使われています。

  1. 法的権利(Legal Rights)
  2. 公正さ(Equity)
  3. 親の期待(Parental Expectations)
  4. 説明責任(Accountability)
  5. 特定と介入(Identification and Intervention)

    (Florian et al. 2006)

①法的権利・②公正さ

誰がどのような障害を持っているのかを分ける意図は、主に障害者のケアや人権保障のためであると言えます。

例えば重度の障害を持つ児童はしばしば「教育のしようがない」と教育の現場から排除されることがあります。教育を受ける権利はすべての子どもに保障され、各国で不利な立場にある子どもたちが裨益できる法整備がされましたが、どの範囲の子どもたちまでが具体的な裨益者になるのかを決定するために、ある種のカテゴライズが必要とされています。

その根底には限りあるリソースを誰にどの程度分配するのかという「公正さ」を考慮する必要性があります。

③親の期待

これは個人レベルの話にも繋がります。

親の期待では、子どもに適切な教育サービスを受けさせたり、子どもの直面している問題いったい何なのか、原因を説明がつくようにしたりするために、ある困難を「障害」と名付け用いたい親の思惑があります。

サービスの提供者だけでなく、障害児を持つ親側の期待も、障害を分類するひとつの狙いとして機能しています。

④説明責任

説明責任(ここでは、教育サービスの受け手に対してどれだけ成果があるか説明する責任と解釈するのが良いです)については、「すべての人に教育を」(Education for All)のかけ声のもと、脆弱な立場にある子どもたち(紛争孤児など)も教育を受けられるように国際社会が努力を重ねてきました。

その脆弱な立場にある子どもたちの中には障害児も含まれ、彼らがどれだけ学べているかをモニタリングするために障害者の分類を必要とする、という背景があります。

⑤特定と介入

上記①―④がどれも何らかの働きかけを行うためにある人の特徴を分ける、という点で⑤に通じています。どの子が学習場面でどのような困難を抱えているのか把握し、適切な介入をするために、子どもの持つ障害ないしは学習ニーズを分類し概念化する必要がありました。

 

農村部の小学校で学習する子ども

障害の医学(medical)モデルとスティグマ(※1)

前項では障害者や障害の種別を分類する意図について紹介し、教育サービスの提供や権利保障のために障害を種別で細かく分類していく必要性を述べました。

 

ただ、たしかに前項で述べたような意図は、ある程度障害者に対するサービスの提供に繋がっていったのですが、「障害を特定してその障害のタイプに基づいて介入していく」という行為の裏には、障害(disability)を「個人の身体的・精神的な異常が生み出しているもの」、と障害者個人が1人で抱えている問題として完結させる捉え方ありました。このような障害観を障害の医学モデル(medical model)と呼びます。

 

障害の医学モデルは、障害による不都合を個人の身体や精神の問題であると捉えるため、そんな不都合を抱える個人を社会に復帰させるために「その個人を」リハビリしよう、という考え方がなされています。

これは、障害者に対するネガティブな態度を看過しているという点で批判されることもありました。

この障害観に基づいた分類は、身体的、精神的に以上のある人に名前を付け普通とは「違うもの」として扱う力を持ちます。誰かを「異なるもの」としてラベリングすることが、時にそのラベリングされた人たちに対する偏見や彼らを否定するような行動(差別など)に繋がってしまったのです。

 

例えば、このラベリングという行動に着目したゴッフマンは、周りから差別されるような原因となる、外見、精神の特徴(アイデンティティ)を持った人とそうでない人(常人)とのコミュニケーションを分析し、前者に向けられる否定的なレッテルを「スティグマ(※1)と名付けました(ゴッフマン 2003[1963])

「障害者」は、彼らの持つ身体的、精神的特徴により社会規範から逸脱しているとされ、社会から負の烙印を押されることになる、というのです。

次回予告

上記で、障害の捉え方等についてみてきてましたが、ではそもそも障害という概念自体は何から生まれるのでしょうか?

次の記事では、障害とアフリカを掛け合わせながら、国際協力における「異なるもの」への理解をさらに考えていきます。

 

参考文献

  • ゴッフマン,アーヴィング〈石黒毅 訳〉(2003)『スティグマの社会学-烙印を押されたアイデンティティ』せりか書房. 〔原著〕Goffman, Erving. (1963) Stigma: notes on the management of spoiled identity. New York: Simon & Schuster.
  • Florian, Lani., Hollenweger, Judith., Simeonsson, Rune J., Wedell, Klaus., Riddell, Sheila., Terzi, Lorella. and Holland, Anthony (2006) Cross-Cultural Perspectives on the Classification of Children With Disabilities: Part I. Issues in the Classification of Children With Disabilities. The Journal of Special Education. 40(1), pp.36-45.

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